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『この世界の事実』と『本の中の理想』(ゆりな/当時中学3年)

 私は本を読むことが好きです。その中でも昔話や神話、そんな感じの本が、特に好きです。
 さらにしぼっていくと、おすすめの本になるのですが、最近、私はその自分が特別大好きな本に、共通点があることに気がつきました。
 それは、“主人公やそのまわりの良い人達はあまり死なないで不幸にもならない”ことです。
 どうしてそんなに子どもっぽい本が好きなのかなと自分でも思うけれど、やっぱり悲しいお話は苦手なのです。
 昔話では、人や動物に優しくしてあげたり、正直だったりすると、必ず良い事があります。イソップ物語では、悪いことをすると必ず、こらしめられます。
 小さいころ、そういった本を読んでいると、『良いことをしていると絶対幸せになれるんだ!』とおもえましたし、『悪いことをしていると、こわいめにあったりするんだ』とも思えました。
 しかし、実際に周囲を見回してみると、あんまりそんなことないのかなという現実に引き戻されます。
 例えば、すごく優しい人と、あまり人のことを考えない人がいたとします。あまり人のことを考えない人がこれを持っていっておいてほしいと頼めば優しい人はちゃんと持っていっておくでしょう。でも人のことを考えない人が「この人は頼めばやっておいてくれる」と思うと、優しい人は、人に親切にしたがために仕事が増え、人の事を考えない人は楽をするのです。
 そういうことを考えていくと、やはり良い事をしていてもちっとも幸せになんかなれないのではないかという結論にたどりつくことになります。
 でも、そんな結論がでたからといって、良い事なんかしたくないとか、どうせならやっぱり自分も得をしたいし、人を使おうとかいうわけではありません。
 そのことに対して、自分で考え、自分なりの答えをだしてきたからです。
 その答えをだすにあたって、私はまず始めに考えたことは、自分はそれで楽しいのかということです。
 自分が楽しくなれないからといって人に親切にせず、自分が楽をしたいから人にものごとをおしつけていて、自分はいつ楽しくなれるのかなと思いました。
 今、自分が楽しいと思えるときは、主に、家族が楽しそうにしているとき、いっしょにいると楽しい友達といるときです。
 だったら人を使うことにしか考えてない人はいつ幸せだと思うのでしょうか。
 人を利用してお金を手に入れ、大金持ちになったとしても、それは“幸せ”にみえるでしょうか。お金を出して人と友達になっても“幸せ”にみえるでしょうか。
 それよりも、家族と笑っていたほうが、私にとっては絶対“幸せ”に見えます。
 私は、“得”と“幸せ”はあまりつながりのないものだと思います。全くつながりがないといえばうそになると思いますが、数学に例えると、『得=幸せ』ではないと思います。証明問題のように、わかりやすくいうと、“得”は“幸せ”の一部分ですが、“得”をしたからといって、“幸せ”になったとはかぎらないと思うのです。
 それに、――例えが多くなりますが――例えば、世界の人々が皆、悪い人になったら、だれかが得をしても一人じめしようとするから、多くの人が不幸になります。そして勝ち残った人々も、子どもが好きでないので、子どもがほっとかれ、血がとだえてしまうだろうと思います。
 それとは対照的に皆が良い人になると、人々は、人を好きになることができるし、皆が幸せになれると思います。
 良いことをしても、話の中のように、神様や魔女はごほうびをくれません。悪い人をこらしめてはくれません。“幸せ”は自分で作らないといけないと思うと、少しがっかりします。
 でも自分でも人を“幸せ”にしようとできると思うとちょっとわくわくします。
 自分が“幸せ”になるために人にやさしくするだけ

<未完>