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好きなこと <お料理>

  そもそもは、母が忙しかった事にある。
  母は、はた目に見ても気の毒なほど忙しかった。

  よく頭痛がしていたが、今思えば本当に忙しかったからだと今は理解する。
  父の診療所の受け付け、経理事務、人事、薬剤や検査の事、掃除、そして父の診療そのものの介助と仕事の事以外、私達の子どもの世話、学校の事、そして服の修理、毎日の炊事洗濯、院外での患者さん達のアフターなど、めちゃくちゃ忙しい人であった。

  母は夜遅くまで仕事になると、買い物に行き損ねる事があって、そうならないように、時々私達子どもは買い物を頼まれたものであった。
  中でも私は幼稚園の頃から、帰宅すると父の診察室の壁にもたれて父の患者さんとのやり取りを見ているのが好きで、よくずっと診察室にいたためか、よく頼まれた。
  母のメモを持って、母の黒い、年季の入った財布をもって、母のように母のかいものかごを片手に持って、当時の小型のスーパーであった朝陽・弘田百貨店という店と、和田のお肉屋さんと、矢野のお魚屋さんと、その横の八百屋さんに行くのが常であった。
  そして、いつも私は各お店で、「麻子ちゃんはえらいねえ。」と言ってほめてもらうのが大好きであった。

  特にある日の事、突然自転車が通せんぼをした。
  時々見かけるお兄さんで、今を思えば、高知大の大学生であったのであろう、「本当に麻子ちゃんはかわいいねえ、僕のお嫁さんにしたい。」というような事を言われた。
  突然の言葉に私はうつむいて、両手いっぱいのお肉とお魚と野菜とその他を抱えたまま、うろたえていたら、にこっと笑って、「とおしてほしい?」と聞かれ、それにまた返事せずにうつむいていると、「いいよ、今日は通してあげる。」というような事を今を思えば標準語で言われ、通してくれた。

  それからも時々見かけるとやさしいいたわりのほめ言葉の声をかけてくれたそのお兄さんは、いつのまにか全く見かけなくなったが、私はあの日から一生懸命お使いを母に訊きに行ったのは確かである。

  いつも近所の人達にほめられて、せいが出た買い物に始まり、だんだん忙しい母を何とかしてあげたいと思い、母のまねをして、炒め物に始まり、学校の家庭科の教室に出ている調理実習の料理から、母が月刊でとっていた「暮らしの手帖」という雑誌のお料理、新聞のコラムとだんだんレパートリーが広がったのも、父の、麻子ちゃんがしてくれるからうれしいうれしい・・・・という日々の感謝の言葉である。

  そうのこうのしている内に、それも、4人兄弟という、おやつのあたりの悪くなる人数の中で、おなかいっぱい食べたかったという単純な動機から、また「暮らしの手帖」のグラビアのおいしそうなのに引かれて、お菓子作りに挑戦するようになるのである。

  かくして、私のお料理人生は幕をあけた。
  一番好きなのは、限られた材料から短時間で幾品も酒の肴を作る事である。