学校の本分とは?
学生の本分とは・・・というのは、よく言われることである。私は、特に 中学校は、心も体も大きな変化を迎え、一生の中でもおそらく一番いろんな自分を見つめ、そしていろんな人生への方向づけをする時期であり、何よりも、人生一番のわくわくする時期であり、またいろんな感性が育ち、それ故に、もし学校が楽しくなければ、私たちの感性は本来の方向でない、とんでもない方向、ほんとうの自分の望まない方向へ、半ばやむを得ず行ってしまうように思う。そこで、中学校の本分とは、楽しい中学生活を送ることができる ということではないか と考えた。
学生の本分は、よく勉強だ といわれる。今見ていて、学校の勉強の効率は、よくないと思う。みんな、学校の勉強が楽しいだろうか。楽しくないのはなぜだろう。どうして学校で勉強して、また同じことをおもしろいとは思えないままで宿題をするのだろう。勉強がもし単なる訓練になっているとしたら、先生や親の目を意識してやっているのだとしたら、それはあまりに虚しい。成績は、よくなければならないとは決して思わない。数学ができないのもまたその人の個性である。英語がイヤならイヤでもいいと思う。大人だって、お裁縫がイヤだといって、新学期の最初にこどもに持たせる雑巾まで買っている大人が結構いる。小学校のとき、給食の白衣を自分の家で洗わずに、お金を出してクリーニングに出している人だって、全然悪くなかった。それでもちゃんと大人としてりっぱに成り立っている。こども達も、それをちゃんと許している。”○○ちゃんのお母さん、おさぼり!”なんて、いわなかった。冷凍食品や、既製品のおかず、またまたできあがったお弁当をふだんの食事に買ってくる大人だっている。確か、家計も料理も、こどもの頃に、”家庭科”という教科で習
ったはずなのに、結局こうだ ということは、家庭科の意味をほんとうに理解はしていなかった、形だけの勉強だったということかな と思ってしまう。おそらく、その人の家庭では、そんな手抜きが大人には、大人によって許されているのだろう。でも、そんな大人達が、こどもの勉強の手抜きやムラを、好き嫌いを許してくれているのかどうかは、はなはだ疑問である。
私は、身になる勉強がしたい。勉強は楽しいと思いたい。先生にはいけないと思われるかも知れないけど、やっぱり好きなことは思いっきりやりたいし、つまらないことはあんまりやりたくない。私の個性をフルに伸ばしたい。学校の勉強を、みんなで楽しくやりたい。私の小学校の先生は、とても明るくて、楽しかった。私の妹の、今の担任の先生も、教科書なんかなくていい、教科書なんかでは得られないとてもおもしろい授業をするそうである。よく教科書を家においてあるので、”忘れていって困ったろう?”と聞くが、いつも、”ぜーんぜん!”という返事が返ってくる。そうか!先生がいるのだもの、教科書が生徒側になく立って、先生からたくさん知識はもらえるんだな とすごく感動した。
私は、学校の先生になりたいな と小学6年の頃思っていた。学校の先生が好きだった。だから今でも時々、先生についてあれこれ感受性を持ってみてしまう。中学校に入ってからは、先生ってすごくすごく大変なんだと思うようになった。
そこで、とあることを思いついた。各生徒が一学期に一回ぐらいの割で教壇に立って、自分ならこうやる という授業をやる。先生は、その生徒のいすに座って、生徒として授業を受ける というのはどうだろう。もちろん、先生も一生徒として質問や補足をしていくのである。そして、最後の5分ほどで入れ替わって、まと
めや追加補足をする。
授業をする生徒には、ふだんの先生の、クラスを教えるという責任や、 聞いてもらえないときの虚しさ、わかってもらうことの難しさを含めた気持ちが初めてわかるだろうし、いすに座って授業を受ける先生には、管理される側の気持ちが何十年ぶりかで思い出されるかも知れない。そしてまた、一時間の進む予定の範囲の確認、内容、及び重要ポイントなどについて、手前に打ち合わせることで、先生と濃厚な、また先生の人間性に個人的に触れる有意義な接点が生まれるだろう。授業をすることが難しいと思うなら、それこそ教科書を読むだけのような授業でもよいと思う。
もちろん、体育や技術、家庭科、美術などの授業でもよい。
中学校になってから、先生との間が希薄になったような気がする。私たちは今から大人になるのである。そのためには、よい大人を”ひな形”として、たくさん知る必要があると思う。学校の先生はみんな、学識者であるから、よい大人のはずである。入れ替わり立ち替わり現れては消える先生方を、ほんとうに知るよい機会が私たちには必要だ思うし、また、自分たちで授業を楽しいものに作るチャンスを考えてみる、そんなチャンスがあってもよいのではないか。お互いの立場を理解するには、残念なことに想像力が乏しく、その立場に立ってみなければわからない今のお互いとしては、これはとても良い方法だと思う。
そして、もう一つ大事なことは、授業が生徒によって、何か感受性を持たれることである。友達がどんなふうに教壇に立つかは、きわめてみんな興味があるだろう。教壇に立つ友達の、”わかってくれた?”という顔に、それぞれが、先生に対するとはまた違う表情をするだろう。例え授業がうまく進まなかったとしても、最終的には先生がついてくれているし、あるいは次の時間で先生がちゃんとうまく補足をしてくれるだろう。
私たちの教室の中から、きっと何人か、学校の先生になる人もいると思う。人に教えて、友達が知らなかったことを自分の教えたことで知り、わからなかったところがわかるようになったときの、あのなんともいえない”よかったあ!”というお互いの共感や、うまく教えられたときの自分の満足感、そして自信をなくしている部分を、”これって難しいがやき、すっとわからんでもかまんわえ。”といってあげたときの、友達の何とも言えないほっとしたような顔などを、少しでも多く記憶に残して、例え先生にならなくても、自分のこどもを幸せにする親になっていきたい。
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