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迷惑??

  ある18歳前の男の子が、しっかり者の18歳の女の子と結婚することになり、それにはわたしもいろいろと関与した為、その男の子は彼女と一緒に年明けに、世話になった とちゃんと挨拶にやってきた。
  その男の子は、中学校を出て仕事にも就けずにいたところを、夜間高校に進学したその女の子(本当はすごく優秀であっただろうにもかかわらず、いろいろなことがあって中学校で先生に不信感を持ち、以降、先生の意向には沿わない中学校生活となってしまったのであるが、とても自立した、今の時代には珍しく、自分の家族を含めての人間大好き人間である)が、同じ中学校卒業であったことから、彼のことを気に留め、広くぶ厚い彼女の人脈を駆使してあれこれと世話をして就職させ、ともすれば覇気のない彼に仕事をさせるために、とにかく誉めていたわってずっと彼を支えているうちに、お互いがずっといっしょに人生をやっていけそうなパターンが確かに芽生えて、このたびの結婚となったわけである。
  彼女がそばにいなければうつむきがちになるぼそぼそ声の、結婚直前の彼に、私は尋ねた。
「今年の抱負はなあに?」
  彼はしばらくうつむいて黙っていた。そして、言った。
「人に迷惑をかけないこと・・。」
  これを聞いて、私は、彼がどうして子ども時代、なんの自信を持てなかったか、何をやるにも躊躇が多く、常に二の足を踏み、はた目に見てボーっとして見えるのか がわかったような気がした。
  私はつい、仕事上の癖なのか、言葉の行間や背景を読んでしまう。私は、「ああ!」と思った。彼は、ずっとこの言葉を小さい頃から言い聞かされてきたのだ!

  私達大人のうちで、子どもの頃、人に迷惑をかけないで大人になったものがいるだろうか。人に心配をかけないで大きくなったものがいるだろうか。また、今大人になって、人にあれこれ迷惑を全くかけないで生きている大人が一体いるのだろうか。
  私なんか、まるでノーである。一診療所の長でありながら、なにかとぬかりもあって、職員にはしょっちゅう迷惑をかけている。それを嫌な顔もせず(本当は嫌な事もあるだろうのに)、いつも私のサポートを心がけてくれる職員達が本当にありがたい。そんな職員達をバックに、私は本当に信じられないぐらい、自分の好きな医療をやっていて、夜も昼もない、2日に1日充分寝ればそれで充分であるという生活をしている。家のほうでも子どもにもまたいろいろと迷惑をかけて、でも子どもも子どもで、半ばあきれながら、あれこれ考え、それにつきあってくれて、子どもなりにいろいろ考えて、サポートをしてくれる。子ども達の柔軟性には本当に頭が下がる。私の友人達またしかりである。本当に、私は、抜けまくっているのに、私を取り巻く、私からの迷惑を受けてたってくれる人々のおかげで、人生はどんどん思う方向に進んでいる現状である。
  私がいろいろできるのは、こんな背景のおかげである。もしもこれがそうでなかったら、私はしたいことは何一つできず、ヒトニメイワクヲカケナイコトに一生懸命で、私の人生終わってしまっているであろう確信がある。

  私達は、人間集団で生きているのには、意味がある。それら大切な意味のうちの一つは、お互いをお互いで補い合うことである。これは、角度によっては、感じ方によっては、すなわち人によっては「大きな迷惑!」をお互いかけあって生きているのである。
  特に、家庭という集団は、そうである。おとうさんがしたいことを、たった1人で暮らしていては大変なのを、サポートしておかあさんや子どもでできるようにしてあげること・・これは、おかあさんや子どもの大切な仕事である。おかあさんがしたい事がうまくできるように、おとうさんにとっては意味をなさないメリットのないことでもやってあげること・・これはおとうさんの大切な仕事である。おとうさんとおかあさんの結婚の一番のメリットは、子孫を増やすことではないであろう。子どもが生まれること以前に、お互いが、こう・・と思う人生を築けるようにしていくことであろう。それはたった1人でやるよりも2人だと、共感者がいていい・・ なんて、中学生の友達集団の安定に似たあの感覚・・だけではないはずだ。
  お互いがお互いに迷惑をかけられあってもつぶれない、充分な技量を身につけて、すなわち「大人」になって結婚をし、独身であればしなくてすむような、相手にのみメリットがあって、自分になんのメリットもないことを、ときにはそれどころか自分は損をしてでもそんな手間や時間をかけ、時には経済までをもさいて迷惑を迷惑とも思わずやってくれる伴侶と夫婦しているとき、夫婦はお互いがすごく伸びるのである。大切なのは、「迷惑顔」がないことである。「恩着せ」もないことである。
  注)それだからといって相手に感謝されないことはなく、どうかすると鈍感になるうちの主人なども、少なくとも適当に周囲の人によって「奥田の奥さんは、…。」などと声をかけられ、さすがに気がついたようである。こうして、結婚した頃はそれがわからない人も、いい周囲の人間を持つと、月日はかかっても、それがわかってくる??
  結婚の最初から夫婦がそうであることは、必ずしも必要ではない。結婚当初は恐らく双方、自分のやりたいようにやろうとして、さんざんぶつかり合うものである。それは悪いことではない。どちらもそれなりに、理想を掲げて結婚したのであろうから。いろいろな理想を組み合わせると、一人で造った理想よりもいいものが仕上がるはずである。でも、それを繰り返しているうちに、賢い人は、自分の理想のほうを通そうとがんばってもらちがあかないことに気がつき、そして思いきって相手にいったん譲った人のほうから、前述の本当の結婚の意味が生まれてくるように思う。結婚前には、結婚してもらう為に数々の打算行為が必要だが、結婚した後は打算抜き、相手の為に自分の損をもいとわない行為、これが必要になってくる。これに気がつくのが遅ければ遅いほど、夫婦として一緒に暮らしていることそのものはしんどいであろう。
  かくして、夫婦間でも「迷惑かけるなよ!」という言葉はしんどいものであり、逆に「なんでもきてかまわないわよ。」「私が(僕が)ついているわよ!」という言葉は、本当に安心を、余裕を、そして奇妙にエネルギーを産み出すものである。
  大人でもそんな影響があるこの体制、この言葉が、成長期にある子ども相手では、子どもの人生にはそれ以上に大きな影響を与えるのをご存知だろうか。彼らの性格の明るさや安定感、思いきりの良さ、自信、行動力、将来の夢や希望の持ち方など・・。

  お気づきかもしれないが、前述の男の子は、あれこれ動くたびに、親に迷惑がられてきたのである。動く度に、親に、また人に「迷惑をかけないように・・。」 という親の声、周囲の大人の声が、いつも彼の行動を起こす前に彼の頭の中でカセットテープのように回り始め、結局のところ、周囲に迷惑をかけない内容、スピード、範囲を考えて気をつけているうちに、何も事ははかどらず、そんな彼の過程はそれらの大人にはとうてい理解されず、結局またそれゆえにダメ扱いされるという悪循環を続けてきたのであろう。何を動くにも、親の意に添わないと嫌な顔をされ、疲れを見せつけられてきたのであろう。
  実はこのパターンは、最近の子ども達には多少なりとも見られがちである。「しゃんしゃんしなさいというけれど、僕が僕なりにしゃんしゃんやってみたら、必ず親は文句を言うんだ、だから結局の所僕は、なにもできない・・。」というセリフをよく耳にする。
  それに引き換え、この彼女のほうは、どんなに彼にいろいろがあっても、「嫌な顔」がないのである。ただの友達であった、最初のころからそうであったのだろうと思う。私は、小さい頃から彼女を知っているが、彼女の「嫌な顔」を本当に見たことがない。いつも、「いいよ―。」という。「はーい。」と言ってくれる。そこいらの大人顔負けの、人格者である。母なる偉大な母性を持った女性である。(実は、彼女の母が、子どもに決して力づくの"ノー"を言わない人間である。必ずまず子どもの話を聞く人格の母親であることは注目すべき!?)だから、これまでの彼の周囲の大人の誰もが彼を本当には育てられずに、実の母に捨てられたという認識のある、この不安定な彼をつぶしていったというのに、彼女はいとも簡単に彼を育ててしまったのであろう。彼が彼女との結婚を考え始めた頃、私は彼女に彼を引き合わされていた。今回久しぶりに会ってみると、彼は確かに、驚くほど安定してきていた。
  これは、迷惑を人にかけてもいいということではない。人間は、成長してゆくにも、社会で活動をしていくにも、人に迷惑をかけずにやっていくことは不可能である。だから子どもは誰かに迷惑をかけてしまうものだ とすれば、外での迷惑を減らす為に、他人でなくて、親のほうにこそ迷惑をかけるべきだと思う。やりたいことをやるときには、どうかすると奇妙に人に手間ひまや、迷惑をかけてしまうことはあるものだ。親こそが、それを受けて立たないと、気がつけばこどもがよそであまたいろいろなことを起こしていたりする。
  私は子どもに思う、「かあさんには迷惑をかけてもいいからね。」私は確か、子どものいろいろの失敗の始末を、子どもといろいろやっていく覚悟で親になった覚えがある。
  注)しかし、うちの子達、やっぱりよそでもちゃんと迷惑をかけています。本当に皆さん、ごめんなさい、いたらぬ親で。そのおかげなのか、今の所、どの子も持ち合わせているのは、やろうと思ったら絶対やり遂げていること・・かしら。