“悪い”と知っていても、何らかの理由で、また何らかの感情でそうせざるを得なかったのである。できるだけその結果としてみえている“悪いこと”よりも、親ならば世間の人とは違って、“なぜそういうふうなことになったのか“を急いでできるだけ正確につかまなければならない。さもなくば、“悪い”と指摘することで、本人のイライラを生んだり、親や大人に対する反感や“意地”を育てるだけになることがある。
“なぜそういうふうになったのか”の理由によっては、急いでこどもをかばってやる必要や、大人の助け舟を出してやったこと方がいいこともある。
少なくとも、一言、かばってやる言葉を添えるだけで、こどもは追いつめられない。 大人はこどもをおいつめる必要もない。絶対的に親の方が、経済的に、また社会的に強者だからである。ふつうは親の方に充分余裕はあるはずである。逆効果で、素直な反省や進展にはならない。
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“僕が悪いがじゃない、○○のせいや。”
“この家に生まれてこんかったらよかった。”
“××のやつ、いらんこといいやがって!”
“もうまったくうちの親はうっとおしい。”
“いわれんでもわかっちゅうにいちいちうるさい!” |
むしろ、助け舟を出す、つまり、こどもにがんばらせるだけではなくて、親の側になにかできることはないか という思考やあゆみよりは、こどもから親への信頼や、こどもの人格の安定を生む。また、家庭の中の険悪ムードや緊張も緩和される、こども達にとって、家が安心してくつろげる場になる。
例題その1)宿題をしていない・・・・・“こびとのくつや”
その2)明日の支度をしていない
その3)帰ってくる時間が門限を越した
その4)忘れ物をした
その5)先生に叱られた
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2.悪いことは謝らせるべきか?
こどもに謝らせよう、非を認めさせようと押していくことは、意外に本心から悪いと思う気持ちを吹き飛ばして、自分で自分を守る、いわゆる保護者を失った故の不安から自己防衛の、“僕が悪いがじゃない”とか、嘘を重ねてなんとか処理をしようという、奇妙な苦肉の策に走りやすい。
こどもにひとことかばう言葉をかけて、ほっとしたような顔がでてきたら、それは、結構こどもごころに悩んでいたのである。いたわってやることでさらに反省心をふくらませることができる。素知らぬ顔で、自分の非を認めないときは、本当に親の勘違いか、時間をかけて作られた、親は必ず自分を否定するという思いこみがこどもの側にあっての条件反射である。事態はややこしい。時間をかけて、親とこの立て直しを親から始めるべきかもしれない。親は“自分を保護してくれる人”ではなく、彼らにとって親は世間の人と同じ存在であり、彼らは、我が身は自分で守るしかない と思い込んでいる。
こどもが本心悪いと思ったら、つい“ごめんなさい”が言える環境とは、
1)自分が悪い時に、既に自分が悪いと反省しているのに、こんなに僕自身が困っているのにそれを全然わかってくれずに感情で僕を怒ってさらに僕を困らせた、こっぴどくやられた想いが、経験がそのこどもには多くないこと
2)親がふだんから僕が話すことをすぐにきこうとしてくれること、さえぎらずに最後まで言わしてくれること、僕が正直に話した時、話してよかったという結末になること(なぐさめてくれることや、手助けを出してくれること)
3)おかあさんに時間の余裕と心の余裕があること
(別参考資料参照ください)
*こどもも大人も、自分がしたまずいこと、悪いことは本当は口に出して誰かにきいて欲しいものである。それができたとき、思わず何かしらほっとするものである。逆に、そんな想いを誰にも話せないとき、気分は沈み、世の中のいろいろが楽しいとは思えず、思うようなエネルギーが生まれてこないものである。こどもの特異性は、この世のほかの誰でもなく、自分の母親に話せたとき、そのときに心からほっとし、“罪悪感“という肩の荷をおろし、そしていやされて、いい表情で次の何かに動き始められるものである。それと同時に親をありがたいと思い、彼らのこどもとしての人格は安定していくのである。
例題その1)食事中にコップをテーブルから落として割った
その2)集金袋を朝になって出してきた
その3)クラスメートを傷つけてしまったとき
その4)なくしものをしたとき
その5)おかあさんに頼まれていたことを忘れていたとき
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3.兄弟間でいただき物や、おやつなどをみんなでわけねばならぬとき、それらを量的に均等に分けるべきか?願いごとを兄弟同じようにかなえるべきか?
年齢差やそれぞれのこどもの気持ちや事情を考えてやるべきではないか。
もし、親の決定した配分が上の子が得をする配分であれば、それは日頃からそんなことやしんどいことが兄弟の仲で一番多くなりがちな年上のこどもが自分が上でよかった!と思ってくれる、よいチャンスであり、そんな仲から年上の子が兄弟の仲で余裕をもち、本当に心から弟妹に優しくなるものである。
また兄、姉は、“おかあさんはふだんのぼくの勉強をはじめ、兄弟の仲で一番損な、ぼくのしんどさを親がわかってくれているんだ” という心強さを得るよい機会である。
例題その1)丸ごとチーズケーキを買った。
その2)“兄弟で分けなさいね。”とおばちゃんに袋ごとお菓子を貰った。色々な種類のクッキーが入っている。
その3)ご飯のとき配膳を誰から配ってやるか。
その4)寝るとき兄弟でおかあさんの横を取り合いになった。 |
4.親に迷惑をかけるな!心配をさせるな!というべきだろうか
こどもの頃誰に迷惑もかけずに育った大人はいないはずである。もともと人間は誰かにいろいろと迷惑をかけるたびになにかを感じ、そのたびに成長を自然にするものであるが、そのときに誰かが“迷惑をかけた”と非難してくると、本来の“しまった!”という流れからその非難への防御のほうに流れが変わってしまう。それよりもまず先に、急いで、親が大人達が、こども達が思わず“あのおかあさんには迷惑をかけられん、心配をさせとうない!”と自分から気をつけたくなるような親になってやるべきではないだろうか。
例題その1)家出をした
その2)自殺をしようとした
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5.ごほうびはこどもをダメにするか
人間がよい方に伸びるためには人間は幸せでなければならない。うれしい!と思うことが多くなければならない。こどもがしんどいこと、つらいことを乗り越えるためには、それを上回る楽しいこと、顔がぱーっと輝くことがなければならない。
朝から昼、夕方まで学校や保育園、幼稚園などで他人集団に、そして夕方から朝までは家で家族集団に結局自分のしたいことを譲らなければならないことの多い今の社会環境の中では、こどもが疲れやしんどさを効率よくいやしていく必要がある。
今の社会では、大人のこどものどちらにストレスが多いのだろうか。 |
大人はいざとなれば仕事を、仕事場を代えることもできる
離婚したり再婚したりすることもある
今日しんどかったら“自分の意思”で今日の仕事を休むことができる
毎日の家事うちの食事の支度も、冷凍食品、できあい、ほか弁、外食などでごまかすこともできる
時々の特別な洗濯も、クリーニング屋さんに出して、お金でけりを付けてしまう
自分のこどもの勉強も、自分はちゃんと小学校、中学校は出ているのに、うまく教えられないからとか、今自分がもう忘れちゅうき とか言って、今からは勉強のべの字もしてみようとしないで、他人にお金でけりを付けてしまう
仕事中、トイレにも行ける
お茶を飲みながら仕事できることもあるし、おやつがでることもある
いちいち字をきれいにとか正確にとか、そのたびに内容に評価やけちをつけられないことが多い
毎日毎日“残業”という、家にまで持ち帰って職場と同じことをしなければならないやっかいものを持つことはない(こどもの残業とは、宿題のこと)
常に先に進むごと、また一定の時期が来るごとに、点数で克明に算出されてくるような細かな勤務評価を持たない
毎日持っていくものが違うために、毎日違う支度をすることはない
仕事中に姿勢をとやかく言われたり、死後が暇なのに許されないことは少ない
雨が降っても風が吹いても寒くても車で通うことがめったに許されない
いつも登校の荷物が重くても誰も手伝ってくれないし、おとなは同情もしてくれない |
*こんなに今のこどもはストレスのかかる時間の長さも量も濃度も多く、高くなってきているのに、なにで一体昔よりその我慢が報われているとというのか?
*なぜ、一時の日本のサラリーマン達のパチンコ通いのように、あの子もこの子もテレビゲームという、我を忘れ、現実世界を忘れさせてくれるものに没頭しなければならないのだろうか?
*家で与えるごほうびは、ささやかなものでよいときもあれば、大きいものが必要なこともある。ささやかなものはこまめにあげられることがよい。そして無限なものが最高。(お風呂で体を洗ってあげる、学校まで車で送ってあげる、おやつを希望のものにしてあげる、家の中でおんぶしておかあさんタクシーしてあげる、トランプをしてあげる、遅くまで起きていてもよい・・・・)
*ごほうびをあげるのに、“できんとごほうびはないからね!”など、アメとムチ式にはならないこと。・・・“○○できたら○○しようね。”というのと“○○しなかったら○○しませんよ。”というのは、大人にとっては同じ意味なのかもしれないけどもこどもには全く異なった気持を与えてしまうものである。 |
5.こどもの言うなりになってはいけないか、こどもに任せていてはダメか
親を始め、大人がキライ、家がキライ、学校がキライ、社会がキライなこども達は大人や家、学校、社会のためのことは考えはしない。自分が精神的に生き延びるために、少しでも、たとえつかのまでも幸せになる、または少しでも疲れないためのことをまず考える。いわゆる“自己中心”を発揮してくる。しかし、親、大人、学校、家が好きなら、その人達に喜んでもらうことがまた彼ら自身の喜びになる。であるから、好きな大人のことを考え、また全体のことを考えてうごくようにするためには、そうあって欲しいと本心願うなら、彼らが大人達によって幸せを感じている状態にしておかねばならない。さもなくば、彼らの言いたいこと、したいことは全て大人をイライラさせるようなものになってくる。
こどもが自分の親、自分の家が好きになったら、例え相手が小学生でもこどもにいろんな権利を渡してみるとよい。こどもらしい柔軟さでいろいろな難題に取り組み、かれらのそばから、“おとうさんなら○○するけどね。”“おかあさんなら○○がいいな。”と、単なる脇役をしてやるにとどめる。そこに威圧感を持たない方がよい。彼らが困れば暖かく、彼らが望むように助けてやればよい。
こうやって、家の中の親権はこども達に渡して、親はこどもの位置にまで下がってみるとよい。そうするとこども達は、まずに親である私達よりもずっと家族のためにかわいく一生懸命動き、そして私達親を一番に考えてくれる。そして、親の言う意見をとにかく耳に入れて動いた方が得策だ、どうやら親の言うことは聞く価値がある ということを体で知り、その結果本当に親を尊敬するのである。そして本当の“生きる力”とは、こうやって家の中でついてくるのである。
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注意)“親”とはこんなにしんどいものなんだぞ”!とばかりにしんどさを教えたり、押しつけたりしてはいけない。それでは、単に、“大人になりたくない”“仕事なんかしたくない。”“家族とメシなんてくいたくもない・・・。”などの感情を育ててしまうだけになってしまう。
こどもたちの自分の持っている考えで、親がいっしょに動いてやってみると、彼の意見で世の中やっていくとこうなる という現実を彼に見せててやることができる。それはかれらが自分の口で“おとうさん、あれはまずかったね。”“おかあさん、やっぱりこれではいかんで。”というまでそれを続行してやるほど、効果的である。そのあとほどなく、親の意見をまず聞いてそれを重要参考として動くようになる。間違っても親の言うことの方がえいぞ”“あと知らんぞ。”と言わないこと。そうして本当に親を離れてひとりで暮らすようになったとき、あるいは結婚という形で新しい家庭を築くときよりも以前に、単にやりたいことに突っ走ってもダメだということ、世の中にはいろんな背景があるものだということを本当によくよくわかってもらう必要がある。
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こどもというものは、親元にいる間は、何度でも失敗してもよい。なぜなら必ず私達親が救って見せるし、挫折感をどんなに味わっても、私達は家の中でそれらをいやしきってやろうではないか。(これはドイツの平均的な子育てに関する考え方)
また、かれらはこどもなのだから、自分たちの力だけではできないことがたくさんある。私達は、自分のため以上に子供のしたいことをてつだってやって実現させ、充実させ、こども達が人生を楽しいと思ってもらいたい。アクティブに生きてもらいたい。(これは、アメリカの平均的な子育てに関する考え方)
*こどもが親を好きでないときに、 自分のこどもに本当の“生きる力”を家の中で教えたいときのやり方は、複雑になるので、カウンセラーにきいてくださいね。
以上