山北みかんマラソンのお話
むかしむかしでない今の話じゃあ。おくだあさこの家のみのりは、すぐ上の姉の枝里沙〈2歳の年の年末の大晦日の夜に、まな板の上においてあったお正月用のたこの足にこっそり噛付いて、噛み切れずにモノが言えなくなっていた。なんだか彼女の後姿の様子がおかしいので、どうしたのだろう・・・と親に名前を呼ばれたときも、根性で、たこの足に噛付いたままそれを話さずに返事をしたという、つわもの。〉によく似て、奇妙に食べ物によって、執着を示す事があるのである。
時は9月、まだみかんがハウスみかんなどが出回り、ボンビー〈貧乏の事をあえて、聞こえが良いので、あさこ語ではこう呼ぶ〉な奥田家では、みかんなどはおそれおおくて、山北みかんが安く出回るまで、とてもお口には入らないころのことである。私、あさこは新聞を見ながら、うなっていた。去年、市役所主催の新年走り染めのお城のマラソンで、6位入賞に気を良くして〈実は、性別、年齢別のため、9人中の成績である〉、ぜひ今年ももくもくと昔のように走っていたいような気がしていた矢先、新聞で、山北みかんマラソンの走者の公募の記事を見たからである。
出場種目を4キロにするか、7キロにするか、迷っていたところをこどもが、何を迷っているのか と聞いてきた。私はすかさず、まじめに、「走ってみかんを食べにいくかどうかなのだ。」 といった。新聞記事を見て理解した上の子達は、良かったのだが、4番目のみのりは、「みかん食べるが?みのりも行く!行く!」と言って同行の名乗りをあげた。しかし、みのりが私の伴走をできるわけはなく、みのりはみのりで走ってもらおうかな と思ったのであるが、よくよく募集要項を見ると、“小学1〜3年生は親がいっしょに走る事” とあった。おりしも私が応募しようとしていた成人の部は、すでに定員を募集し終わっており、残すところ、ファミリーコースであったため、出るのなら、ファミリーコースのみ余地があり、子どもを連れて出なければならない状態であった。そこで・・・みかん、みかん、みかん・・・と連呼しているみのりとともに出ることにしたのであった。
本人に、4キロの意味を説明したが、それよりも、「走ったらおみかんが食べれるがでねえ。」とそればかりで、彼女の意識改革はもはや不可能であった。あの夜は彼女は、みかんとともに走っている夢を見たに違いない。当日、配られた参加者名簿の表紙の写真に、山北みかんの着ぐるみのかぶり物をした人が走っているのを見て、「やっぱり・・・!」と納得していたから。
9月のその日から11月の5日まで月日は無駄に流れ、やっと2日前の11月3日の祭日に、手前に送られてきた地図を見て、一度コースを走ってみようとした。ところが祭日の11月3日もなぜか奇妙に仕事になってしまったため
、おまけに我が家に帰ったのが夕方4時半、それから急いで夕飯の支度をして早く出ようと思っていたのに、我が家で一番私と付き合いの長い、とある男性(夫とも言う)がなんだかんだと用事を言いつけて私の意図を邪魔をし、かわいそうなシンデレラの私が、高知市九反田の家をやっとあとにしたのは、なんと夜の8時、そして向こうの会場の山北についたのは夜の9時であった。そんな時間にとてもひとりでコースを走る勇気はないような、自然だけがいっぱいのみかん畑だらけの中の真っ暗い道で、か弱い女性である私は、前日にコースを確認、スピード配分を考えるなどということは、計画倒れに終わったのであった。とにかく地図を一生懸命見て、せめてもの・・と車でコースを徐行でライトをたよりにたどったが、結局夜の10時までかかって、迷子でみかん畑の中をうろうろしただけの事であった。まあ、私はドライブはきらいではない。
私がスピード配分やしんどいところを手前につかんでおかねばならないと思ったのは、他でもない、4キロの意味を理解する事を必要としなかった我が愛すべき4女、みのりにある。当日やはりその不安はあたった。こりゃあ、途中で抱っこかおんぶだあ!私は、母として覚悟を決めていた。彼女は普段でもそうだが、私といると、常に自分で歩かず、私に抱っこをせがむ小学一年生である。1歳から、歩きたいときは歩き、走りたいときは走り、抱っこされたいときは抱っこされようとする・・・ただし我が家の兄弟間の封建制度は厳しく、うえの子が私にすでに抱っこされているときや今から抱っこされたいときは、姉のほうが優先のため、もっとも幼い彼女は封建制度上、しょっちゅう降りて歩かざるを得なかったのである。そして今は、上の子達はさすがに“かあさん抱っこ!”とは言わなくなり、母である私の腕の中は、今やっと彼女の天下なのである。(平成13年11月現在小額2年生にしても、学校の廊下で堂々跳びついてきてだっこ、後は一切歩かないみのりである。『みのちゃんって、赤ちゃんや!』と言われれば『そうよ!』とニコニコして返事をし、実に堂々たるものである。
私は受付で尋ねた。「もしも本人が走れなくなったら、おぶったり抱っこしてもいいでしょうか?」
受付の女性達は顔を見合わせながらにこにこして、とどのつまり、「スタートとゴールのところでは親子で手をつないで足を地につけて、いっしょに走ってほしいですね。後は、走れなければかまわないですね。」と優しいお返事を下さった。本当にありがたくその返事を聞いたことである。将来60才にしてフライトアテンダント<スチュワーデス>を目指す私としては、どんなときでも、この人達のようににこやかに返事をしたい・・・などと別の事も考えながら・・・。
かくして4キロ、総勢216名のファミリーマラソンの火蓋は切って落とされた。小学一年生で、マラソンの経験もそうあるわけでもなく、彼女は、「幼稚園の年中では30番台、年長のときは、女の子で1番だったよー。」といっていたが、私が「学校のお勉強の時間の半分くらいまでの時間以上〈30〜40分)に走ることになるんだけど・・。」というと、さすがに「そんなに走れんかもしれん・・・。」と言い出した。そこで、私はとっさに考えたのである。スタート時点では絶対抜かれ得ない順番、一番後ろで出発しようと。というわけで、一番後ろからヨ−イ、ドン!で出たのである。その直前に、私はみのりにささやいた。「もし疲れたらかあさんに言いや。かあさんがおんぶしちゃおうきね。係りの人がかまんゆうてくれた。」「うん!そうする!」
そこで、彼女はピストルの音をきいてはりきって、条件反射のように飛び出した。いちばん後ろで出たのである。マラソンの最初はゆっくりでよいという人たちの集団が、最後グループの走者達であるが、その中をみのりは他の人とは違う走り方で走り出した。いきなり始まるその上り坂をぶっちぎりで走り出した。すごくうれしそうな顔でびゅうんびゅうん走り出した。思わずそのうれしそうな顔を、その走りを私は止められなかった。だって、どうせ私がいるから、どう走ってもいいんだ。そう、母親の私がいるもの・・・。
そうして私達は、走れる間思いきり走って、みのりが疲れると、彼女は私の背中にぴょんと跳び乗って、その私が走り疲れると私は彼女を負ぶったまま歩いて、すると私を彼女はいたわって降りてくれて、二人はおテテつないで歩いて、他の人達にザ―ッと抜かれ、そしてまたお疲れがましになると、また二人で『ぶっちぎり走法』で走るのであった。コース配分を手前に出来なかったため、とりあえず彼女に、マラソンの時のちょいとしたコツ・・・カーブはその都度できるだけ内側をとる事、そして上り坂は無理をしないが、下り坂は前に飛ぶだけで、平地のときよりたくさんの道のりが進めるので(直角三角形の直角をはさまない辺は一番長いから)、できるだけ前に飛ぶこと・・を走りながら説明してやると、上り下りのとても多いこのコースで、下り坂にさしかかるたびにくまのプーさんに出てくるカンガルーのカンガーのように、ボヨーンボヨーンと楽しそうに跳んでいたのである。
そして私達は、108組中58位でおテテつないでゴールインした。みのりは最後の長い長い坂も楽しそうに、本当に楽しそうに、ボヨーンボヨ−ンボヨーーーンとやっていた。
人生は、マラソンである。そう、子どもにとっては親とともに歩む、いや走るマラソンである。そのときに一番大切な事は、安心して思いきり走れること、いつでも楽しいという思いを持つ事だ と私は思っている。私はいつも、よく体も心もが持ちますね といわれる。私がいろいろあっても疲れないでフルでがんばれるのは、今の人生が楽しいからである。今の私に、今以上に走れとは誰も言わない。誰も、もっと早くとももっとゆっくりとも言われない。ただいつも褒めていただくばかりである。(あきれて言われないのかもしれないが。)だからきっとずっと疲れたり嫌になったりせずに走れるのであろう。ついでに言わせていただけるなら・・照れくさいような気もするが、前述の夫に、何をしてもどうやっても愛されている という安心があるからだろうと思う。だから、苦労かな・・とは思うけれど、今日もやっぱり懸命に走れるのである。毎日毎日外来で、電話で、FAXで果てのない葛藤を抱える方々と、“母親”を、“親”を考えていけるのだろうと思う。今つらい想いをしているわが子を家ではぐくみたてなおし、ともにいろんな障害物を乗り越え、または上手く避け、彼らなりの充実した幸せな人生を築くパワーを、持たせてやれる“親”を楽しく実践できる事をねらって。
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