TOP

金魚すくいと私

    私は、子どものころ、大丸デパートの屋上のペット売り場の桜尾の黒い出目金の金魚に奇妙にあこがれていた。
  いつも屋上で父と姉たちと豆自動車に乗らせてもらったあと、必ず水槽をそっとのぞいて、黒い出目金が今日も元気なのに(前見た出目金かどうかはわからないくせに)奇妙にほっとしたり、元気よさを心配したり、いないときは売れたのか死んじゃったのかが気になってたまらなかったりであった。

  そんな小学校の中学年のある日曜日、父はしつこく金魚を見ている私に一度金魚すくいをやらせてくれたことがあった。
  私は人がやっているのを見たことはあったが、やるのは初めてであった。
  そっとやってみた。
  が、あっという間に網が破れただけであった。
  父は、何度かやらせてくれようとして、網をまた頼んでくれた。
  じっと見ていた店の人が、「初めて?」ときいてくれ、何度かただで網を換えてくれた。
  でも私はやっぱりうまくすくえなかった。
  私は、今から一緒にうちに帰って暮らすことになる金魚を驚かすまい、出目金さんと仲良くしたいから、追い立てて、嫌われまい、早く私に慣れるようにしてあげようとしていたのである。
  私は、私のすくい網の中に私の家に来たいと思ってくれる出目金が入ってくれることを願って、網をつけてそっと待ったのだった。
  見かねて店の人が、「すくえない子」を救う??ために、「あげるからどれがいい?」と訊いていてくれたときは、店の人を「魔法使いの人みたいだ・・・。」 と思ったものだった。

  結局は、ずっと夢見ていた、「名前を呼べば来る私の金魚」・・になってくれる前に、彼らはすぐに命を落としてしまった。
  涙を落としながら土の中に埋めた彼らのことは、そのときのショックな気持ちと共に、今でもなんだかとても印象に残っている。


  さて、私は動物愛護協会の一員ではない。
  大上段から金魚すくいに異論を唱えるというのでもない。
  ましてや夏祭りの金魚すくいに水をさすつもりもない。
  だから、うちの子ども達が保育園、幼稚園の夏祭りなどで金魚すくいを面白そうだからやりたい・・と言った時、とっさに躊躇はしたが、異論も自分の感情も口には出さず、子どもたちがお友達と一緒に楽しむ  ということはいいことだ・・の方を優先して、もちろんやらせた。
  ただ、私は手が出なかっただけである。
  そして、何がよくないのか、今に至る迄つれて帰った金魚さんを何ヶ月もの間育てて、呼べば来る金魚になることはないまま、たいてい悲しい結果になっている。


  うちの子どもたちは、とにかくぬいぐるみ達に名前をつけるのが上手である。
  そもそもは、私がいちいち全部に名前をつけて言ったのが最初なのであろうが、この私も感心してしまうほど、実にうまい。
  4女は、一年生の時育てた朝顔のつぼみがどんどんつき始めたとき、担任の先生の話によれば、順番にそれらのつぼみに名前をつけていったらしい。
  ガザミ??という蟹を、生きたままいただいたことがある。
  私は嬉しさと同時にひとつの心配事を、蟹の入った発泡スチロールと共に抱きかかえて夜の玄関をくぐった、と心配は大当たりであった。
   「ただいまなさい!」で「おかえりなさ〜い!」と跳んできた子どもたちが、 発泡スチロールを目にして、『それなあに?』『どうしたの?』『何でそんなの持ってんの?』と群がってきた。
  私はおもむろにそれを床に置いて、さんざんじらした後、そーっと蓋をあけさせてやった。

「うわあ、氷が動いてる・・え!蟹がいるよ、この蟹、動いているの?」
「じゃあ、生きているの?すごーい!名前をつけなくちゃ!」
「5つもいる!蟹さんて、どんな名前がいいのかなあ。」
「模様のどこで区別をつけようねえ、かあさん!」
「えさはなあに?」
  彼らは、飼ってあげるために蟹をもらったと思ったのである。
  私は、食べるためにいただいたのだと説明はしたが、とてもその夜は、料理はできなかった。

  次の日、ご近所におすそ分けして、少しだけ・・もう一晩だけうちの蟹さんになってもらい、動かなくなってから、本来の目的の蟹さんに戻ってもらった。
  だからうちの3女の学年の親子行事が、うなぎのつかみ取りの後、それを職人さんにさばいてもらって、蒲焼にする・・ということにあっさり決定した時、私はぶっ倒れそうだった。
  この決定に盛り上がるみんなの気分に水を差したくなくて、くらくらしながらもぶっ倒れないように立っているのは、結構大変な技であった。
  部長さんの明るい『これで終わります。皆さん、楽しくやりましょう。よろしくお願いします!』という声が突然、その日の運動会の気分をよみがえらせてくれて、私はふっと救われた。

  自分の手中にしたうなぎを職人さんに差し出して、殺してもらう・・?!
  いや、私なら懐に入れて、そっとお堀にでも逃がす、そして、うなぎの恩返しを狙う?!
  うなぎを食べる目的で連れてくるなら、殺される直前のうなぎさんたちを、殺されることを知って救わざるは、義を見て勇をせざると同じ?!

  殺される直前まで追いかけられ、必死で逃げ回る必要があるうなぎさんがかわいそうで、この日はきっと朝から苦しいに違いない、実は決定となった今から既に、その日が来ることを思うと、気分が優れない。
  生き物を、電池かミカンか何かのように、つかみ取りにして楽しむことが、どうも医者をしているからかどうかはよくわからないが、苦しくてたまらない。
  こんなの私だけなのかなあ・・・・。
  やっぱり私は変わっているのかなあ・・・。

以上

*うちでは、子どもが小さいころ、どこのうちの子どももたいていそうなように、『ただいま。』というべきところを『お帰りなさい。』と入ってくる傾向にあったとき、それを正そうとして失敗して、子どもが混乱したことがある。
かわいい困りかたなのだけれど、なんだかかわいそうになって、わたしは『ただいまなさい。』なる帰宅の言葉を発明した。
そうすると、なぜか『お帰りなさい。』に対して『ただいまなさい。』が出やすくて、そのうち、『おかえり。』に対して、『ただいま。』の組み合わせが、子どものかわいい脳みその中で、成り立つようになったのである。